戦国時代に突入するきっかけとなった応仁の乱
今日は【応仁の乱】について学びましょう。
いわゆる戦国時代の幕開けとなる応仁の乱。これは歴史のターニングポイントとして重要な出来事です。
1338年に足利尊氏が室町幕府の初代征夷大将軍に就任してから室町時代がスタートしました。この幕府の将軍が全国の各地のサムライのトップだったわけです。
しかし、8代目足利義政の時代になると、将軍の家臣たちが力をつけていたのですね。中学レベルで覚えるべきキーパーソンは【細川勝元】と【山名宗全】という幕府の重臣です。この2陣営の勢力争いがもとで、全国の武士が東西に分かれての大いくさ、つまり応仁の乱がおこります。
応仁の乱は10年くらい続くのですが、この間に京都は焼け野原、それを止められない幕府の権威はガタ落ち。形だけは室町幕府として残ったものの、幕府は実質的に何の力も持たなくなったのです。(それでも戦国時代には、形だけは15代将軍となった足利義昭を織田信長が保護して幕府を再興させて、信長が実質的に幕府の実権を握ろうとしたこともありました。)
全国を統治するはずの幕府が力を持たない、全国で力のある武士たちが独立勢力、つまり大名となって戦国時代の幕が開けるわけです。
少しだけ補足すると、戦国時代初期はもともと各地域を治める役割を与えられていた武士が【守護大名】として独立したのですが、次第にその地域で力をつけてきた武士である【戦国大名】が守護大名に取って代わるという現象がおこりました。そう、これが【下剋上】というやつですね。
最後に、応仁の乱がおこった年は応仁元年、1467年で、「応仁の 人の世むなし 京の町」と覚えることができます。
政党政治と大政翼賛会
特に大政翼賛会をよく理解している生徒さんは少ないなというのが私の印象です。少しだけ詳しく解説しましょう。
まずは【政党政治】について。
政党とは近い政治理念をもった人たちが集まって作るものです。今の日本でいうなら自由民主党、公明党、立件民主党、共産党、日本維新の会などがあげられます。
国会の場だけでなく、例えば地方の〇〇県〇〇市の市議会だけで活動している【地方政党】なんかもあるんですね。
そして議会においていくつかの政党が競いあいながら行われる政治が【政党政治】です。これは現代の日本の政治システムで、難しい話ではありませんね。
付け足しをすると、アメリカやイギリスは特に大きな2つの政党が競い合って政治を行う二党制(二大政党制)、中国のような独裁と言われる国は政党が1つしかない一党制(一党独裁)と言ったりしますね。
高校でこの部分を学ぶと、さらに細分化されて一党優位政党制(日本の自民党など)、ヘゲモニー政党制、分極的多党制という具合に覚える語句が多くなります。とりあえず中学レベルではアメリカの民主党vs共和党や、イギリスの労働党vs保守党の二大政党制という言葉だけは押さえておきましょう。
で、【大政翼賛会】とは何か。
これは1940年からの政治体制です。
日本は1925年男子の普通選挙法~1932年の5・15事件(犬養毅首相暗殺)までは今と同じような政党政治、つまり政党の政治家から内閣総理大臣が選ばれる政党内閣制をとっていましたが、1930年代は軍部が力をつけてきた時代です。犬養毅首相が軍人に暗殺されてからは政治家ではなく、軍人が首相になるなど8年続いた戦前の政党政治は終焉を告げたわけです。
1937年からは盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争が泥沼化、1939年から第二次世界大戦が勃発しました。このような情勢下で、第二次近衛内閣は非常時の意思決定がスムーズになるような一党制を目指しました。それが大政翼賛会となったのです。それまで存在した政党は解散し、政治家たちは大政翼賛会に合流しました。
政治の上層部に反対できる勢力がなくなり、首相が右向け右!と言ったらみんながそれに従わないといけない体制になってしまったのです。
ちなみに大政翼賛会は一党独裁制を目指して作られた組織ですが、それ自体は政党ではないということだけ頭に入れておいてください。結局、近衛首相が作ろうとした一党制にはなりませんでしたが、独裁を行うために大いに機能した組織だというふうに覚えてばokです。